加藤ヒロ 公式サイト

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2019.04.21

敗者

試合後の控え室で、タオルを頭から被って椅子に座ったままうな垂れる。

顔はその原型をかろうじて留めてはいるものの、殴られた痕にできたアザで青く腫れていた。

右目の瞼は野球のボールにように大きく膨れ上がり、その視界を完全に塞いでいるようだ。

その姿は、誰がどう見ても、、敗者の姿であった。

初回のラウンドから立て続けにパンチをもらい、3ラウンドまでに合計4度のダウンを奪われた。

アマチュア時代に1試合に2度ダウンを喫した経験はあったが、こんなことは彼にとっては初めての経験だった。

一歩間違えばリングサイドからタオルが投げ入れられてもおかしくはなかったが、規定の8回終了のゴングが鳴るまで彼はリングに立ち続けることができた。

それが、彼にとってこの試合での唯一の救いだったのかも知れないが、勝敗の結果はジャッジペーパーを見るまでもなかった。

鮮やかなKO勝利とまで行かなくとも、持ち前のキレのあるパンチで勝利を期待、いや確信していた観客の頭上には、失望に包まれたため息が大きな塊となっていつまでも留まっていた。

試合終了直後、一体リングの上で何が起きてしまったのか、そして、どうしてこのような結果になってしまったのか、本人には全くわからなかった。

呆然とした頭の中で、試合中に起きたことを振り返ろうとするが、冷静に物事を考えることが出来ない。

いつもはリズムよく繰り出せるパンチも、腕が重く全てのパンチが大振りになってしまう。

大振りのパンチは相手に軽くかわされ、逆に見事なまでのカウンターパンチを見舞われる。

一体、どうしたというのだ。

自分の体が自分のものでないみたいだ。

家に戻り失意のまま眠りについた彼は、翌朝の明け方近くに顔と体の痛みで目を覚ます。

目覚めた瞬間、眠りの世界に一時的に逃避行することで離れていた現実が、否応なく頭の中に蘇ってくる。

そして、昨晩に起きたことを受け入れざるを得ない状況に、心は再び苦悶し始める。

この試合に向けて、目立った減量苦はなかったものの、いつもの試合よりも練習量が足りなかったのは事実だ。

だけど、完全な準備不足というわけではなかったはずだ。

それでも、思い返せばいつもと同じルーチンの中で試合を迎えていなかったことがあった。

試合の数日前に、減量に目処がついた時点で、まだ計量前にもかからず、ジムの会長の目を盗んで、試合前には食べないと約束していたはずのパンケーキを食べてしまったのだ。

そう、パンケーキは彼の大好物なのだ。

街中で「パンケーキ食べたい。」と踊る若者を見て、計量の後、どうしても抑えきれなくなって食べてしまったらしい。

それがどう試合に影響したのかはわからない。

でも、ボクサーの身体はとても敏感だ。

軽量を終えた後、試合開始までに一時的に食事制限が解除されるが、それでも何を食べても良いわけではない。

ここで減量苦から解放されたボクサーが試合前に暴飲暴食してしまい、コンディションを崩して肝心の試合でのパフォーマンスの質を落としてしまうことも多い。

だから、彼の場合も、きちんとしたカロリー計算の下、試合中のスタミナ強化の観点からも食べるものが決められていた。

今回もそれには従ったはずだ。

少なくとも会長の目の行き届く範囲では。

彼は布団の中で思いを巡らせた。

相手が思いのほか強かったのか。。

いや、違う。。。本来ならあの程度のパンチをもらう自分ではない。

ましてや、決してフットワークが軽いとは言えない相手の顔面とボディーに、自分のパンチを当たられないなんて考えられない。

そう考えると、たっぷりの生クリームとイチゴで派手にデコレーションされたパンケーキの影響で、いつもよりも糖度を増した脳が、うまく身体と心をコントロールできなくしてしまったのか。。

いや、そもそもパンケーキを内緒で食べてしまった行為そのものに対して、神様が天罰を下したのかも知れない。。。

それとも、彼にとってのその日は、あらゆる占いで何をやっても上手く行かないことが予め定められていた「特別にツイていない日」だったのかも知れない、とも思った。

そんなことを考えながら、彼は数日間、布団の中で寝たきりのまま過ごした。

ろくに食事も喉を通らなかった。

日中、外は春の陽射しが降り注いでいるというのに、窓はカーテンで閉め切り、部屋は真っ暗のままだった。

そんな春の麗らかな天気とは裏腹に、彼の心の中は、暗い空から降り続ける土砂降りの雨が地面を叩きつけていた。

しばらく、、ずっと、止むことのない雨の中に、、背中を丸めて、、うずくまるように、ただただ時間が過ぎていくことだけを祈っていた。。



数日後の朝、カーテンの隙間から差し込む光で彼は目を覚ました。

どうやら、心の中の土砂降りは止んだようだ。

心の視界を遮っていた濃い霧は少しずつ晴れ、空を覆っていた厚い雲の隙間から一筋の太陽の光が差し込んでいた。

太陽の光は、柔らかかった。

しかし、だからと言って、彼の心の傷が癒えた訳ではない。

彼は布団からフラフラと立ち上がり、カーテンを引き、窓を開け、空気の匂いを嗅いだ。

春の匂いがした。

数日ぶりに吸い込んだ外の空気はとても新鮮だった。

だけど、彼の表情が緩むことは決してなかった。

窓の外を見つめる瞳は、外の景色を見ているようだったが違っていた。

彼の瞳は「とある一点」だけを見つめていた。

その時、彼が見ていた「とある一点」が何であったのかは、彼にしか分からない。

大事なのは、彼の「とある一点」を見つめる視線が、「確固たる決意」を伴って向けられていたものなのかどうか、そして、その先にもたらされるであろう「次の結果」が、彼にとって納得できるものであるかどうか、ということだ。

彼の表情に笑顔が戻る日があるかは、まだ誰もわからないが、今はその「次の結果」を見守るしかないであろう。
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