龍神温泉の上御殿に到着したのは、日が暮れる前の17時を少し過ぎた頃。
この宿は、明暦3年(1657年)に当時の紀州藩主であった徳川頼宣公が湯治に訪れるために建てた御宿だそうだ。
現在も当時のまま残るという本館の二階の「御成りの間」は、徳川公が実際に泊まられた部屋。
驚くことに、その「御成りの間」に一般の客も宿泊できるという。
貴重な機会なので、今回はその「御成りの間」に宿泊してみることにした。
実は、予約した時にHP上で見たその部屋の写真から、僕は何やら言い知れぬ不安に襲われていた。
もう何百年も時が止まったかのような床の間の掛け軸に襖絵といった和室の風景。
これだけの歴史がある部屋だ。
間違いなく俳優の原田龍二さんがこの部屋に泊まったら、部屋の至る所に風船を敷き詰めて「座敷わらしさん、一緒に遊びましょう。」と言っているだろう。
写真からは、そんな雰囲気がバンバン伝わってきていた。
ところが、実際に「御成りの間」に入っていると不安は一掃される。
もう何百年も前に作られた部屋とは思えない程とても綺麗に保存されており、二間に別れた畳敷の和室、昔懐かしい障子の引き戸、年季の入った低い天井に部屋の隅に置かれた三面鏡。
実に落ち着いた空間だ。
僕は人間に人見知りするタイプだけど、こういう宿とかにも人見知りするので、初めて泊まる宿やホテルには簡単に心を開かない。
でも、この部屋は特別だ。
何故だか、心が和む。
龍神温泉は、群馬の川中温泉、島根の湯の中温泉と合わせ日本三美人の湯としても知られる名湯だ。
早速、内湯と露天風呂を堪能する。
温泉のことは詳しくわからないけど、滑らかさを感じて、湯上り後もずっと体はポカポカだ。胆汁の分泌を促す効果もあるらしい。
すごいな。そんな温泉初めてだ。
山の幸が満載の夕食を終え、長時間ドライブの疲れもあり、この日は早めに床に就いた。
翌朝、鳥のさえずりと共に目を覚ます。
まだ、6時を過ぎたくらいか。。
寝ぼけたまま風呂へと向かい、日高川を見下ろす露天風呂に身体を沈める。
すると、露天風呂の遥か頭上を川の対岸へと伸びる電線に、一羽の大きな鳥がやってきた。
クチバシがやや黄色っぽいが、おそらく鳶だろう。
その鳶は、時折羽繕いをしながらキョロキョロと下界を見渡している。
僕は鳶に手を振ってみる。。が、こちらを気にする様子は全くない。
恐らくは見て見ぬ振りをしているのであろう。
「また今日もあの湯だまりに人間が入っている。鳥も水浴びは好きだが、あんなに熱い湯に浸かって人間は大丈夫なのだろうか。」
いや、違うな。あの鳶はそんな事を考えている様子ではないな。
「さて、お腹が空いてきたぞ。今日のご馳走は、野ネズミにしよう。さて、美味しそうな野ネズミはどこにいるかな。」
キョロキョロしている所をみると、概ねそんなところか。
「どうも去年の春先から人間界の様子がおかしい。前までは沢山の人が観光バスでやってきては、道の駅で立ち食いするところを横取りできたのに。。最近はぱたっりと人が来ない。これでは、自力で野ネズミでも捕獲するしかないじゃないか。全く、困ったものだ。」
鳶も人間界の異変に気付いているのだろうか。
鳶が飛び立つまで露天風呂に浸かっていようと思っていたけど、一向に飛び立つ気配はない。
のぼせてきたし、朝食の時間もあるから僕は行くよ、と再び鳶に手を振って露天風呂を後にした。
風呂上がりに朝食までまだ少し時間があったので散歩に出かけてみた。
すると、すぐ近くに日高川にかかる吊り橋を見つけた。
僕は高所恐怖症だからこういう吊り橋は渡らない主義だ。
ましてや、この吊り橋の床板は一部が欠け落ちて下が丸見えの箇所がいくつもある。
ところが、何故か僕はこの橋を渡りたくなった。
勇気を振り絞って足を踏み出す。引き返すことはしない。揺れる吊り橋を僕は一気に渡りきった。
チェックアウト後、上御殿の温泉と食事ですっかり元気になった僕は、車を熊野本宮大社へと走らせた。
本宮には1時間半ほどで到着。
厳かな雰囲気漂う本宮の158段の階段を登りお参りをすませる。
この日も汗ばむくらいの秋晴れの空。
見上げれば一羽の鳶が上空を旋回している。
彼もまた、人間界の異変を察知し、野ネズミを探しているのだろうか。
遠ざかる鳶のピーヒョロロー鳴き声と共に、秋の癒しの旅は終わりを迎えた。
また、明日から頑張ろう。




