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2021.10.26

秋へ

その亡骸は、しばらく鍵盤の上のままだった。

死ぬ間際に最後の力を振り絞って僕の指につかまり、そこからそっと置かれたままの姿勢のままだ。

数日後、僕は彼を拾い上げ、ベランダのプランターに埋めてあげることにした。


気がつけば季節は10月の下旬になり、街は急ぎ足で秋を深めていこうとしている。

ラジオの収録のために名古屋に行ったり、八ヶ岳に行ったり、ショベルカーの技術講習を受けたりと忙しい日々が続いた。

そして、まだまだ先のことだと思っていた映画の撮影が始まった。

劇場版「TOKYO Yancha BOYS」という映画だ。

舞台で何度か演じた役だが、改めて映画用に台本が書き直され、それに伴い僕のセリフも少しだけ変わっていた。

映画撮影は、去年の夏の「渋谷行進曲」以来だと思い込んいたが、よく考えると、今年の4月に一つ映画の撮影に参加している。

来年公開の映画だ。

その時、ロケ地となったライブハウスに僕は電動アシスト付自転車に乗っていった。

まだ買って2ヶ月も経っていない新車だった。

春爛漫の日差しの中で、一番気持ちのいいサイクリングだった。

ロケが終わって駐輪場に戻った時には、僕の自転車はその姿を消していた。

警察に盗難届を出したが、きっと僕の元には戻ってこないだろう。

保険を使って買い換える気分にはならなかった。

この時の出来事は、僕の中で消し去りたい記憶の引き出しへと仕舞い込まれたようだ。

そして、その時の映画の撮影自体も僕の記憶の中で一緒に消されてしまいかけていたのだろう。

今でも車のフロントガラス越しに黄色い自転車を見かけると、目を凝らしてその車種を確認してしまう。

忘れたつもりでも、やっぱり忘れられていない。

なんか昔の恋人に似た人を、偶然見かけた場面に似ている。

まさに映画のようだ。

残念ながら、僕が乗っていた自転車と同種のもの一度たりとも見ていない。


数日間空けた籠り場に戻ってきて机に座る。

するとパソコンの画面の裏側にモゾモゾと動く小さな生物を見つけた。

ハエ取り蜘蛛だ。

あの死んだスパイダーの子供なのか。

それ以来、ほぼ毎日僕の目の前に現れている。

アンプのスピーカーの縁、白い壁の上、電灯の下。

あの死んだスパイダーと同じだ。

夏の終わりに痛めた左腕はまだ痛みを感じていたが、八ヶ岳での農作業や力仕事をこなすうちに、リハビリ効果があったのか、少しずつその痛みも薄れてきた。

まもなく季節は本格的な秋に入る。

明日は僕にとってこの映画の最後の撮影日だ。

新しい彼も、あと数週間で死んでしまうだろう。

良い事があれば悪い事もある。

どう足掻いても、時間は進んでゆく。

気づかないくらい、ゆっくりと。
2021.10.03

スパイダー

9月の中旬頃からだろうか。

僕の籠り場でちょくちょく小さなハエ取り蜘蛛を見かけるようになった。

PC画面に向かっていると白い壁を這いずり回っている姿が目に入ったり、窓を開けようとしたらカーテンの上を探検中だったり。

もう2年くらい前のこと。

キッチンへと続くドアを開けた際に、床につくドアの開閉痕に、微かな血の痕を見つけた。

僕はその頃部屋の中で見かけたばかりの小さなハエ取り蜘蛛を殺してしまったことに気づいた。

こんな小さなハエ取り蜘蛛にも赤い血は通っている。

その時の罪悪感が蘇る。


いつもなら捕まえて外に逃がしてやるのだが、過去の罪悪感もあってか、今回はドアの開閉に注意しながら彼のことをそのまま放置することにした。

狭い部屋だ。ほぼ毎日数回は僕の視界に入ってくる。

僕がレコーディングの練習で歌を歌っているとき。

鍵盤を弾いているとき。

Zoom会議をしているとき。

日に日に彼に対する愛着と親近感は強まっていった。


今年の9月は、僕にとっては何とも言えない「音のない1ヶ月」だった。

ちょうど9月の初め頃、バレーコード(人差し指で複数の同じフレットの弦を押さえるコードのこと)を弾きすぎてしまい、左手を痛めてしまった。

結果として、ここ丸々1ヶ月間ギターを弾いていない。

最初は「また腱鞘炎の一歩手前の症状か。。」くらいに思っていたのだが、痛みが日に日に増していく。

どうやら左の腕全体、手首、肘、肩にかけての筋肉なのか、関節なのか、筋なのかわからないが、複数箇所痛めてしまったようだ。

具体的にここが痛い、というのが自分でもわからない。

左手でコーヒカップを持ち上げたり、ペットボトルのキャップを回すことも出来ない。

経験上1週間もすれば治るだろうとタカを括っていたが、1週間経っても10日経っても一向に良くなる気配を見せない。

さすがに不安にな理、整形外科に行って診てもらう。

「オーバーユース症候群ですね。骨は異常ないので、しばらく使わないでリハビリに通ってください。」とのこと。

靭帯とか骨に異常がないということで少しは安心したが、しばらくはギターを弾くことはおろか、ギターを左手で持つ事さえ出来ない日が続いた。

ギターは弾けないけど、キーボードであればそれほど痛みを感じる事なく弾くことが出来た。

僕は鬱憤を晴らすようにキーボードを弾きまくった。

これがよくなかった。

慣れないキーボードを長時間弾いたため、左腕の違う箇所までさらに痛めてしまった。

それからは楽器を一切触らない日々が続いた。

2週間が経った頃、少し光が見え始める。

コーヒーカップを持ち上げて、ペットボトルのキャップを回すことは問題なく出来るようになった。

そして、少しずつ無理のない範囲で左手に負担がかからないエレキギターでリハビリを開始することにした。

優しく、そっと弦に触れるように。

もう、以前にように弦をグッと力ずくで押さえることはしないし、その必要もない。

暦は10月へと変わり、まだ長時間ギターを弾くことは出来ないが、少しずつ以前の生活に戻り始めている。


そんな朝からよく晴れた日曜日。

いつものように籠り場に着くと、フローリング床の上で小さくうずくまる黒い小さな塊を見つける。

近づいてみるとよく見てみると、あのハエ取り蜘蛛の彼が仰向けになっているではないか。

息を吹きかけてみると、微かに生体反応がある。

彼の8本の足に人差し指を触れてみる。

すると彼はそれを待っていたかのように僕の指に捕まり、僕の指の上をわずかに徘徊した。

しかし、もうそれ以上動き回る力は残っていない。

僕は彼をそっとキーボードの鍵盤の上に置いた。

それから、ジッとしたままそこを動かない。

きっと、このまま彼は息絶えていくのだろう。

そのまま彼を見守ることにした。

僕は、スピッツの「スパイダー」をかけた。

イントロで小気味の良いアコースティックギターのストロークが鳴り響く。

短い彼との共同生活。

音のない9月を共に過ごした。

潤む瞳で彼を見つめる。

そして大粒の涙がこぼれた。

いつかまた夏の終わりが来たら、痛めた左腕のこと、音のないこの1ヶ月のこと、そして、部屋の隅で僕のことをそっと見つめていた彼のことを、僕は思い出すのだろう。
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